



■Let It Be
「どうして、あの人は変わってくれないのだろう」
「どうして、過去をやり直すことができないのだろう」
「もっと考えれば、何か答えが見つかるのではないか」
私たちは苦しい時ほど、何とかして状況を変えようとします。もちろん、変えるために努力することは大切です。しかし、人生にはどれだけ努力しても、考えても、願っても、自分の力では変えられないものがあります。
過去に起きた出来事。
他人の気持ち。
他人の性格。
すでに言われてしまった言葉。
失われた時間。
そして、人生に起きるすべての偶然。
それでも私たちは、変えられないものを前にして、「何とかしなければ」と考え続けます。
しかし時には、変えられないものを変えようとすること自体が、苦しみを大きくしていることがあります。
そんな時に思い出したい言葉があります。
Let It Be.
そのままにしておこう。
これは、単なる「あきらめ」の言葉ではありません。
変えられないものとの戦いをやめ、変えられるものに自分の力を使う。
そのための、とても大切な考え方です。
💡この記事のポイント
人生には、変えられるものと変えられないものがあります。こころが疲れている時ほど、私たちは変えられないものを何とかしようとして消耗します。「Let It Be」とは、何もしないことではなく、変えられないものをそのままにして、今の自分にできることへ戻ることです。
Let It Beは、The Beatlesが1970年に発表した代表曲の一つです。
この言葉を日本語にすると、「あるがままに」「そのままにしておこう」「成り行きに任せよう」といった意味になります。
ただし、この言葉は「何も考えずに放っておけばよい」という意味ではありません。
人生には、自分の努力によって変えられることがあります。
勉強する。
謝る。
相談する。
休む。
病院を受診する。
環境を変える。
誰かに助けを求める。
こうしたことは、自分の選択によって変えられる可能性があります。
一方で、どうしても変えられないものもあります。
問題は、私たちがこの二つを混同してしまうことです。
変えられるものを変えようとする努力は、人生を前に進めます。
しかし、変えられないものを変えようとする努力は、時に私たちを疲れさせます。
「どうしてあの人は分かってくれないのだろう」
「どうしてあんなことを言われたのだろう」
「あの時、別の選択をしていれば」
「嫌われているのではないか」
「もっと考えれば、相手の本当の気持ちが分かるかもしれない」
しかし、考え続けても、過去は変わりません。
相手の心の中を完全に知ることもできません。
そこで必要になるのが、
「これは、今の自分に変えられることだろうか」
という問いです。
つらい出来事が起きれば、苦しいのは当然です。
大切な人との別れ。
仕事での失敗。
病気。
人間関係のトラブル。
期待していた未来が失われること。
こうした出来事そのものが、私たちを傷つけます。
しかし、人間の苦しみには、もう一つの層があります。
それは、
「こんなことは起きてはいけなかった」
「こんな自分ではいけない」
「この気持ちは消さなければならない」
という、現実への抵抗です。
悲しい。
そして、「悲しんではいけない」と思う。
不安になる。
そして、「不安になってはいけない」と思う。
失敗する。
そして、「失敗する自分には価値がない」と考える。
すると、最初の苦しみに、さらに苦しみが重なります。
苦しいことと、苦しんでいる自分を否定することは別の問題です。
雨が降っている時に、
「雨なんて降るはずがない」
「どうして雨が降るんだ」
「雨を止めなければ」
と考え続けても、雨は止まりません。
必要なのは、雨を否定することではなく、
傘を差すことかもしれません。
予定を変えることかもしれません。
あるいは、今日は濡れることを受け入れて歩くことかもしれません。
現実を受け入れることと、その現実を好きになることは違います。
嫌なものは、嫌なままで構いません。
悲しいものは、悲しいままで構いません。
ただ、
「今、これは起きている」
という事実まで否定し続けると、私たちは現実と戦うことに多くの力を使ってしまいます。
「受け入れましょう」と言われると、
「我慢しろということですか」
「嫌なことにも耐えろということですか」
「相手の言いなりになれということですか」
と感じる方もいるかもしれません。
しかし、心理学でいう受容は、そのような意味ではありません。
受け入れることは、賛成することではありません。
たとえば、
「この人は、今のところ自分の考えを変えるつもりがない」
と認めることは、
「この人の考えは正しい」
と認めることではありません。
「私は今、とても不安だ」
と認めることは、
「一生不安なままでよい」
という意味ではありません。
「この失敗は、もう起きてしまった」
と認めることは、
「失敗してよかった」
という意味ではありません。
受容とは、
「好きではない。納得もしていない。でも、今ここに存在している事実として認める」
ということです。
現実を認めなければ、現実に対応することはできません。
地図を見る時も、自分の現在地を間違えていれば、目的地にはたどり着けません。
「本当はここにいるはずではなかった」
と思うことはできます。
しかし、目的地へ向かうためには、まず、
「今、自分はここにいる」
と確認する必要があります。
私たちの悩みの多くは、人間関係にあります。
「もっと優しくしてほしい」
「自分の気持ちを分かってほしい」
「謝ってほしい」
「変わってほしい」
「自分を認めてほしい」
こう思うこと自体は自然です。
しかし、他人には他人の人生があります。
他人には、他人の価値観があります。
どれほど正しいことを言っても、相手が変わるとは限りません。
どれほど尽くしても、好きになってもらえるとは限りません。
どれほど丁寧に説明しても、理解してもらえないことがあります。
ここで苦しくなるのは、
「自分が正しく努力すれば、相手も思い通りに変わるはずだ」
という期待を持ち続ける時です。
もちろん、話し合うことはできます。
お願いすることもできます。
自分の気持ちを伝えることもできます。
しかし、
伝えることは自分の領域。
どう受け取るかは相手の領域。
です。
自分にできること
・伝える
・お願いする
・断る
・距離を取る
・関係を続けるか考える
自分には決められないこと
・相手が理解するか
・相手が反省するか
・相手が変わるか
・相手が自分を好きになるか
この境界が曖昧になると、人は他人を変えるために、自分の人生の多くを使ってしまいます。
しかし、
他人を変えることに使っていた力を、自分の人生を整えることに戻す。
それもまた、Let It Beです。
過去について考えることには意味があります。
失敗から学ぶ。
自分の行動を振り返る。
同じことを繰り返さないようにする。
これは大切なことです。
しかし、振り返りと後悔は違います。
振り返りは、
「次にどうするか」
へ向かいます。
一方で、終わりのない後悔は、
「あの時に戻れたら」
を繰り返します。
「あの時、違うことを言えばよかった」
「あの会社に入らなければよかった」
「あの人と出会わなければよかった」
「もっと早く気づけばよかった」
しかし、今の自分が持っている知識や経験を、過去の自分は持っていませんでした。
今だから分かることを使って、
当時の自分を裁き続けてしまうことがあります。
けれど、その時の自分には、その時の自分なりの事情がありました。
疲れていたかもしれません。
怖かったかもしれません。
知識がなかったかもしれません。
選択肢が見えていなかったかもしれません。
過去は変えられません。しかし、過去をこれからどう扱うかは変えられます。
過去を消すことはできません。
しかし、
経験にすることはできます。
教訓にすることもできます。
誰かへの優しさに変えることもできます。
そして時には、
もう考えないと決めること
もできます。
Let It Be。
過去は、過去の場所に置いておく。
それは忘れることではありません。
過去に、今日の自分の時間まで渡さないことです。
不安になると、
「不安をなくしたい」
と思います。
悲しくなると、
「早く元気にならなければ」
と思います。
怒りが湧くと、
「こんなことで怒る自分はおかしい」
と考えることがあります。
しかし、感情は命令して消せるものではありません。
「不安になるな」
と言われて、不安が消えるでしょうか。
「悲しむな」
と言われて、悲しみがなくなるでしょうか。
むしろ、
感情を消そうとするほど、その感情ばかりを確認してしまうことがあります。
「まだ不安だ」
「まだ苦しい」
「まだ治っていない」
そうやって何度も確認すると、意識はますます苦しさに向かいます。
心理療法の一つであるアクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)では、不快な思考や感情を完全に消すことだけを目標にするのではなく、それらが存在していても、自分が大切にしたい方向へ行動できる心理的柔軟性を重視します。
つまり、
「不安がなくなったら行動する」ではなく、
「不安があっても、できることを少しやってみる」
という考え方です。
不安は、助手席に座っていてもよい。
ただし、
ハンドルまで不安に渡さなくてよいのです。
悲しい日があってもよい。
落ち込む日があってもよい。
何もしたくない日もあります。
人間なのですから、いつも穏やかでいる必要はありません。
Let It Be.
今の感情を、そのまま少し置いておく。
感情を消すための戦いをやめるだけで、こころに少し余白が生まれることがあります。
悩んだ時には、問題を二つに分けてみるとよいかもしれません。
🔵 自分で変えられる可能性があるもの
🔴 自分だけでは変えられないもの
ここで大切なのは、
変えられるものは変える。
変えられないものは、そのままにする。
ということです。
ところが、こころが疲れている時には、逆のことをしてしまいがちです。
変えられない他人の気持ちを一日中考え、
変えられる自分の生活は放置してしまう。
変えられない過去を何度も振り返り、
今日できる小さな行動をしなくなる。
人生を前に進めるのは、変えられないものについて考え続けることではなく、今の自分にできる小さな行動です。
すべての問題に、今すぐ答えを出す必要はありません。
すべての感情を、今すぐ整理する必要もありません。
人間関係の問題も、
「今は結論を出さない」
という選択ができます。
嫌な言葉を思い出した時も、
「このことについては、今日は考えない」
と決めてもよいのです。
私たちは、
問題があるなら考え続けなければならない
と思いがちです。
しかし、考え続けることと、解決することは同じではありません。
同じことを何度も繰り返し考える反すうや、未来の悪い可能性を繰り返し考える心配は、答えが出ないまま長時間続くことがあります。
そんな時には、
「今は答えを出さなくてよい」
と考えてみてください。
考えても答えが出ないことは、いったん置いておく。
今すぐ解決できない問題は、今すぐ解決しようとしない。
他人の心の中は、他人の心の中に置いておく。
放っておくことは、逃げではありません。
自分の限られた時間とエネルギーを、どこに使うかを選ぶことです。
「あきらめる」という言葉には、悪い印象があります。
しかし、すべてをあきらめてはいけないのでしょうか。
叶わない期待。
自分を傷つけ続ける関係。
完璧な自分になること。
すべての人から好かれること。
過去をやり直すこと。
絶対に失敗しない人生。
こうしたものを手放すことで、初めて見えてくるものがあります。
あきらめるとは、人生そのものをあきらめることではありません。
時には、
一つの不可能な道をあきらめることで、別の道を歩き始めること
でもあります。
閉じた扉を何年も叩き続けるより、
隣に開いている扉を探した方がよいこともあります。
誰かに認めてもらうことをあきらめて、
自分の人生を生き始めることもあります。
過去をやり直すことをあきらめて、
今日を大切にすることもあります。
手放すことは、敗北ではありません。
握りしめていた手を開くことで、
ようやく新しいものを持てることがあります。
苦しくなった時には、次のように考えてみてください。
① 何に苦しんでいるのか
まず、問題を一つの言葉にしてみます。「相手が自分をどう思っているか不安」「過去の失敗を後悔している」など、できるだけ具体的にします。
② これは、自分に変えられることか
相手の気持ちや過去そのものは変えられません。しかし、自分がどう行動するかは変えられるかもしれません。
③ 変えられない部分を、そのままにする
「分からないものは、分からないままでよい」「過去は過去のままでよい」と、一度そこから手を離してみます。
④ 今日できることに戻る
食事をする。眠る。仕事を一つ終える。散歩をする。相談する。目の前の生活に戻ります。
大きな答えを出す必要はありません。
人生は、
今日できること
の積み重ねです。
変えられないものから手を離すと、変えられるものに使える力が戻ってきます。
「考えないようにしよう」と思っても、考え続けてしまうことがあります。
過去の出来事が何度も頭に浮かぶ。
将来への不安が止まらない。
他人の評価が一日中気になる。
同じことを何時間も考えてしまう。
眠ろうとしても、頭の中で考えが続く。
こうした状態が長く続き、生活に支障が出ている場合には、単なる「考えすぎ」だけではないことがあります。
うつ病、不安症、強迫症、適応障害、その他のこころの不調によって、思考を切り替えることが難しくなっている場合があります。
次のような状態が続く場合には、専門家への相談も検討してください。
こころが疲れている時には、
「手放せない自分」まで責めないこと
も大切です。
手放したくても、手放せないことがあります。
忘れたくても、忘れられないことがあります。
それもまた、人間のこころです。
「まだ手放せない自分も、今はそのままでよい」
そう考えるところから始めても構いません。
人生では、努力が必要です。
変える勇気も必要です。
逃げずに向き合うことが必要な時もあります。
しかし同じくらい、
変えられないものを、変えようとしない知恵
も必要です。
すべての問題を解決しなくてもよい。
すべての人に理解されなくてもよい。
過去を完全に納得できなくてもよい。
不安が完全になくならなくてもよい。
人生には、
答えが出ないままのこと
があります。
分からないままのこと
があります。
納得できないまま、時間だけが過ぎていくこと
もあります。
それでも、人は生きていくことができます。
変えられるものは、変えていく。
変えられないものは、そのままにしておく。
そして、自分の人生に戻ってくる。
変わらないものは、
変えようとしなくていい。
Let It Be.
そのままにしておこう。
それは、投げ出すことではありません。
自分にはどうにもできないものとの戦いを終えることです。
そして、その戦いに使っていた力を、
今日を生きるために使うことです。
変えられないものは、そのままに。
変えられるものには、小さな一歩を。
それくらいで、よいのかもしれません。
※本記事は、こころの健康に関する一般的な情報提供を目的としたものです。症状や治療については個人差があります。強い不安や抑うつ、睡眠障害などが続き、日常生活に支障がある場合には、医療機関へご相談ください。