



「昔の出来事なのに、思い出すと今でも胸が苦しくなる」「事故の場面が突然頭に浮かんでくる」「嫌な記憶を思い出さないようにしているのに、何度もよみがえってしまう」。強いショックを伴う出来事を経験したあと、このような症状が続くことがあります。
人の脳には、経験した出来事を整理し、時間の経過とともに「過去の出来事」として記憶していく働きがあります。しかし、非常に強い恐怖やショックを伴った経験では、記憶が十分に整理されないまま残っているかのように感じられることがあります。
そのため、すでに危険が去っているにもかかわらず、何かをきっかけに当時の映像や感情、身体感覚が突然よみがえり、まるで「今、もう一度その出来事が起きている」かのような反応が生じることがあります。
こうしたトラウマに関連する症状に対する心理療法の一つが、EMDRです。
💡この記事のポイント
EMDRは、単に「目を左右に動かす治療」ではありません。過去のつらい記憶を安全に扱いながら、記憶に伴う強い感情や身体反応を軽減し、過去の出来事として整理していくことを目指す心理療法です。特にPTSDについて多くの研究が行われています。
EMDRとは、Eye Movement Desensitization and Reprocessingの略で、日本語では「眼球運動による脱感作と再処理法」などと訳されます。
1980年代後半にアメリカの心理学者Francine Shapiroによって開発された心理療法で、現在では主にPTSDやトラウマに関連した症状に対して用いられています。
名前に「眼球運動」と入っているため、
「目を左右に動かせばトラウマが治る治療なの?」
と思われることがあります。
しかし、実際のEMDRはそれほど単純なものではありません。
患者さんのこれまでの経過を確認し、現在の精神状態を評価し、治療の準備を行い、どの記憶を扱うかを決めたうえで、段階的に進めていく構造化された心理療法です。
眼球運動は、その治療過程の中で使われる方法の一つにすぎません。
通常、時間が経つにつれて、多くの出来事は「昔あったこと」として思い出せるようになります。
嫌だった出来事についても、
「確かにつらかったけれど、もう終わったことだ」
と感じられるようになることが多いでしょう。
しかし、非常に強い恐怖や無力感を伴う出来事では、その記憶に関連した反応が長期間残ることがあります。
たとえば、
などがあります。
もちろん、こうした出来事を経験した人すべてがPTSDになるわけではありません。
一時的に不眠や不安、動悸、悪夢などが生じても、時間の経過とともに自然に回復する人も多くいます。
一方、一部の人では強い症状が長期間続き、生活に大きな支障を生じることがあります。
PTSD(心的外傷後ストレス障害)では、トラウマとなった出来事が過去の出来事として十分に整理されず、現在の生活の中でもさまざまな形で影響を及ぼすことがあります。
代表的な症状には次のようなものがあります。
① 再体験
嫌な記憶が勝手に思い出される、悪夢を見る、フラッシュバックが起こるなど。
② 回避
出来事を思い出す場所、人、会話などを避けるようになります。
③ 考え方や感情の変化
「自分が悪かった」「誰も信用できない」「世界は危険だ」などの考えが強くなったり、喜びを感じにくくなったりします。
④ 過覚醒
物音に敏感になる、常に警戒する、眠れない、イライラする、集中できないといった症状が現れることがあります。
特徴的なのは、頭では
「もう終わった出来事だ」
と分かっているにもかかわらず、心や身体は
「まだ危険が続いている」
かのように反応してしまうことです。
EMDRでは、こうしたトラウマ記憶に伴う反応を治療の対象としていきます。
EMDRで特徴的なのが、左右交互に刺激を加える両側性刺激です。
代表的なのは、治療者が左右に動かす指などを患者さんが目で追う方法です。
ただし、必ず眼球運動を使うとは限りません。
などの方法があります。
では、なぜこのような刺激を行うのでしょうか。
EMDRでは適応的情報処理モデル(AIPモデル)という考え方が用いられています。
このモデルでは、非常に苦痛な経験が十分に処理されない状態で記憶として残ることで、その時の映像、感情、考え、身体感覚などが現在も活性化されやすくなると考えます。
EMDRでは、その記憶を安全な環境の中で思い浮かべながら両側性刺激を加え、記憶の再処理を促していきます。
ただし、EMDRがなぜ効果を示すのか、その脳科学的な仕組みが完全に解明されているわけではありません。
両側性刺激によってワーキングメモリに負荷がかかり、記憶の鮮明さや感情的な強さが低下するという仮説など、さまざまな説明が研究されています。
したがって、
「左右に目を動かすことで脳の特定部位が直接治る」
というような単純な説明は適切ではありません。
ここは非常に重要です。
EMDRを受けても、
過去の出来事そのものを忘れるわけではありません。
目標は「記憶を消去すること」ではなく、
思い出した時に生じる、強烈な恐怖・罪悪感・無力感・身体反応などを弱め、過去の出来事として受け止められる状態を目指すこと
です。
たとえば交通事故の記憶がある人の場合、
治療前には事故を思い出しただけで、
「怖い」
「また事故に遭う」
「自分は何もできない」
という強い反応が起きていたものが、治療が進むにつれて、
「確かに怖い事故だった」
「でも事故はもう終わった」
「今は安全な場所にいる」
と感じられるようになることがあります。
記憶そのものは残っています。
変化していくのは、その記憶が現在の自分に与える影響です。
標準的なEMDRは、大きく8つの段階に分けて行われます。
いきなり嫌な記憶を思い出して眼球運動を始めるわけではありません。
① 病歴・生活歴の確認と治療計画
現在の症状、これまでの経験、治療歴、生活状況などを確認し、EMDRが適しているかを検討します。
② 準備
EMDRについて説明し、治療中に不安が強くなった場合の対処方法などを確認します。安心できるイメージやセルフコントロールの方法などを練習する場合もあります。
③ 評価
どの記憶を扱うのか、その記憶に関連する映像、考え、感情、身体感覚などを整理します。
④ 脱感作
記憶の一部に注意を向けながら眼球運動などの両側性刺激を行い、その後に浮かんだイメージ、感情、考え、身体感覚などを確認します。
⑤ 肯定的認知の定着
「自分には対処できる」「今は安全だ」など、その人にとってより適応的な考えを記憶と結びつけていきます。
⑥ ボディスキャン
記憶を思い浮かべた時に、身体のどこかに緊張や不快感が残っていないかを確認します。
⑦ 終了
その日のセッションを安全に終了できるよう状態を整えます。
⑧ 再評価
次回の治療時に変化を確認し、必要に応じて同じ記憶を続けて扱うか、別の記憶へ進むかを判断します。
このように、EMDRは評価・準備・治療・再評価を繰り返す体系的な治療です。
トラウマ治療に抵抗を感じる理由の一つに、
「つらかった出来事を、最初から最後まで細かく説明しなければいけないのではないか」
という心配があります。
EMDRでも、治療対象となる出来事についてある程度確認する必要があります。
しかし、必ずしも出来事のすべてを細部まで長時間語り続けることが治療の中心になるわけではありません。
たとえば、
「一番つらい場面はどこか」
「その場面を思い出した時にどんな考えが浮かぶか」
「どの程度つらいか」
「身体のどこに反応を感じるか」
などを確認しながら治療を進めます。
そのため、言葉にすること自体が非常につらい人にとって、EMDRが治療選択肢の一つになる場合があります。
ただし、「トラウマを全く思い出さずに治療できる」という意味ではありません。
記憶に一定程度注意を向ける治療である以上、一時的に不安やつらい感情が強くなることがあります。
EMDRについては多くの臨床研究が行われており、特にPTSDに対する治療効果についてエビデンスが蓄積しています。
世界保健機関(WHO)は、PTSDに対してエビデンスの多い心理療法として、トラウマに焦点を当てた認知行動療法とEMDRを挙げています。
また、英国のNICEや米国のVA/DoDなどの診療ガイドラインでも、EMDRはPTSDに対する治療選択肢として位置づけられています。
つまりEMDRは、
「科学的根拠のない特殊な治療」ではなく、PTSDに対して国際的な診療ガイドラインにも取り上げられている心理療法
と考えることができます。
一方で、どの患者さんにも必ず効果があるわけではありません。
また、EMDRが他のすべての治療法より優れているという意味でもありません。
PTSDに対しては、
認知処理療法(CPT)
持続エクスポージャー療法(PE)
トラウマ焦点化認知行動療法
など、他にも有効性が認められている心理療法があります。
患者さんの症状、治療歴、希望、利用できる治療環境などを考慮して選ぶことが重要です。
治療回数は一律ではありません。
英国NICEのPTSD診療ガイドラインでは、成人に対するEMDRについて一般的に8~12回程度を一つの目安としながら、必要に応じてそれ以上の治療を行うことが示されています。
ただし、
などによって必要な期間は大きく異なります。
特に、幼少期から長期間にわたって虐待や暴力などを経験している場合、複数の記憶を扱う必要がある場合などでは、より長期の治療が必要になることがあります。
「3回受ければ治る」
「○回でトラウマが消える」
というように一律に考えるものではありません。
EMDRはPTSD以外のさまざまな症状についても研究されています。
たとえば、
などです。
ただし、ここでは区別が必要です。
EMDRについて最もエビデンスが確立しているのはPTSDです。
PTSD以外の疾患についても研究は行われていますが、疾患によって研究量やエビデンスの強さが異なります。
そのため、
「EMDRはあらゆる心の病気に効く」
と考えるのは適切ではありません。
診断や症状に応じて、認知行動療法、薬物療法、対人関係療法、環境調整など、他の治療法と比較しながら検討する必要があります。
EMDRはトラウマ記憶を扱う治療です。
そのため、現在の精神状態によっては、すぐに記憶処理を始めることが適切でない場合があります。
たとえば、
といった場合には、まず安全の確保や症状の安定化、他の治療を優先することがあります。
これは「EMDRを受けられない」という意味ではありません。
重要なのは、その人の状態に合わせた順番とペースで治療を行うことです。
特に複雑なトラウマや解離症状を伴う場合には、十分な評価と慎重な治療計画が必要です。
あります。
EMDRは苦痛な記憶を扱うため、治療中あるいは治療後に一時的に、
といったことがあります。
そのため、治療前の準備や治療後の状態確認が重要になります。
治療中も、
「耐えられないほどつらくても我慢し続けなければならない」
というものではありません。
状態に応じて中断したり、ペースを落としたりすることができます。
治療者との間で、
「どの程度なら続けられるか」
「つらくなった時にはどう伝えるか」
をあらかじめ相談しておくことが大切です。
インターネット上には、
「EMDR用の眼球運動動画」
「左右に動く光を見てトラウマを治す」
といった動画やアプリがあります。
しかし、標準的なEMDRは単なる眼球運動ではありません。
どの記憶を扱うのか、現在の精神状態は安定しているのか、治療途中で強い反応が出た場合にどう対応するのかなどを含めて行う心理療法です。
したがって、重いトラウマ記憶について、動画を見ながら一人で強く思い出そうとすることはおすすめできません。
特に、
場合には、専門家に相談したうえで治療を検討した方が安全です。
EMDRは、手順だけを見ると比較的シンプルに見えるかもしれません。
しかし、実際には、
精神状態の評価
トラウマ症状の評価
解離症状の評価
治療対象となる記憶の選択
治療中に症状が悪化した場合の対応
などについて専門的な知識が必要です。
日本EMDR学会でも、正式なEMDRトレーニングを修了した専門家による実施が推奨されています。
EMDRを受けることを検討する場合には、
なども重要になります。
単に「眼球運動ができる」というだけでは、十分とはいえません。
PTSDには薬物療法が用いられることもあります。
不安、抑うつ、不眠などの症状に対して薬が有効な場合もあります。
一方、海外の診療ガイドラインでは、PTSDそのものに対する治療としてトラウマ焦点化心理療法が重要な位置を占めています。
ただし、
「心理療法なら薬は必要ない」
ということでもありません。
PTSDと同時に、
うつ病、不安症、不眠症などがみられることもあります。
その場合には薬物療法を併用することがあります。
大切なのは、
「薬か心理療法か」という二者択一で考えるのではなく、その人の症状や希望に応じて治療を組み合わせること
です。
Q. EMDRをすると嫌な記憶を忘れますか?
A. 基本的には忘れる治療ではありません。記憶そのものよりも、その記憶を思い出した時に生じる苦痛や身体反応が軽減していくことを目指します。
Q. 催眠術ですか?
A. 催眠療法とは異なります。治療中も意識は保たれており、自分が何をしているかを認識した状態で進めます。
Q. PTSDと診断されていなくても受けられますか?
症状や医療機関によって異なります。PTSD以外についてもEMDRを用いることはありますが、最もエビデンスが確立しているのはPTSDです。まず症状を評価したうえで治療方法を検討します。
Q. 1回で治ることはありますか?
一つの出来事に対する苦痛が短期間で大きく軽減する人もいますが、必要な治療回数には大きな個人差があります。複数のトラウマ経験がある場合には長期間かかることもあります。
Q. 保険診療で受けられますか?
EMDRの提供方法や費用、保険診療上の扱いは医療機関や実施体制によって異なります。受診を希望する医療機関へ事前に確認してください。
つらい出来事を思い出したくないのは当然の反応です。
そのため、
出来事を思い出す場所を避ける。
関連する話をしない。
考えないようにする。
感情を抑え込む。
といった方法で自分を守ろうとすることがあります。
短期的には、それで少し楽になることがあります。
しかし、回避が長期間続くと、
「思い出したら耐えられない」
「あの場所は危険だ」
「自分には対処できない」
という感覚が残り続けてしまうことがあります。
トラウマ治療では、安全を確保したうえで少しずつ記憶と向き合い、
「思い出しても、自分は今ここにいられる」
という経験を積み重ねていくことが重要になります。
EMDRも、そのための方法の一つです。
EMDRは、Eye Movement Desensitization and Reprocessingの略で、主にPTSDやトラウマに関連した症状に対して行われる心理療法です。
治療では、つらい記憶に注意を向けながら、眼球運動やタッピングなどの左右交互の刺激を利用します。
ただし、EMDRは「目を左右に動かすだけ」の治療ではありません。
患者さんの状態を評価し、準備を行い、治療対象となる記憶を選び、反応を確認しながら段階的に進める構造化されたトラウマ治療です。
✅ EMDRで大切なポイント
過去の出来事は変えることができません。
しかし、過去の出来事が現在の自分に与え続けている影響は、治療によって変化していく可能性があります。
「何年も前の出来事なのに、今でも思い出すと苦しい」
「フラッシュバックや悪夢が続いている」
「過去の経験のために、人や場所を避け続けている」
といった状態が続いている場合、それは単に「気にしすぎている」からとは限りません。
PTSDやその他のトラウマ関連症状が背景にある可能性もあります。
その場合には、EMDRを含めたトラウマに対する専門的な治療について、精神科・心療内科やトラウマ治療に詳しい専門家へ相談することも選択肢の一つです。
※ご注意
本記事はEMDRおよびPTSDについて一般的な医学情報を提供するものであり、個別の診断や治療を行うものではありません。症状や治療の適否については、医師や専門家へご相談ください。